【M・R・J】
技術立国・日本も最近はアジア新興国に追いつかれて
なかなか苦しい状況です。
かつて戦時中の日本では、特に航空機産業の技術がめざましく
連合国側に脅威を与えていました。
当時、日本の航空機メーカーは隼、疾風で有名な中島飛行機のほか
十数社存在していました。
その中でも中島飛行機と対をなすメーカーが零戦を開発した
三菱重工業でした。
戦後、その航空機開発力を恐れた連合国は大手航空機メーカーを解体し
その後純国産航空機の開発は大きく出遅れる事になります。
1964年念願の日本初、そして日本最後になる純国産旅客機YS11が開発されます。
この旅客機は異常なほど頑丈で当時最高の安全性を持っていましたが
(その反面、扱いにくかった)営業面では完全に失敗しました。
輸出において日本の国力とサービスが釣り合っておらず
売ったはいいがメンテナンスができず放置すると言う状況で
結果的に182機の生産にとどまり、その後純国産旅客機は製造されませんでした。
それからおよそ半世紀、満を持して純国産旅客機M・R・J
(Mitsubishi Regional Jet)がこの秋に初飛行を迎えます。
世界最高の燃費、世界最高の居住性をひっさげて
小型旅客機業界に殴り込みをかけます。
恐らくこの機会を逃せば日本は旅客機産業に参入する事は
永久にできなくなるかも知れません。
長年の夢であった純国産旅客機、ぜひとも成功させて欲しいものです。
written by 佐藤
なかなか苦しい状況です。
かつて戦時中の日本では、特に航空機産業の技術がめざましく
連合国側に脅威を与えていました。
当時、日本の航空機メーカーは隼、疾風で有名な中島飛行機のほか
十数社存在していました。
その中でも中島飛行機と対をなすメーカーが零戦を開発した
三菱重工業でした。
戦後、その航空機開発力を恐れた連合国は大手航空機メーカーを解体し
その後純国産航空機の開発は大きく出遅れる事になります。
1964年念願の日本初、そして日本最後になる純国産旅客機YS11が開発されます。
この旅客機は異常なほど頑丈で当時最高の安全性を持っていましたが
(その反面、扱いにくかった)営業面では完全に失敗しました。
輸出において日本の国力とサービスが釣り合っておらず
売ったはいいがメンテナンスができず放置すると言う状況で
結果的に182機の生産にとどまり、その後純国産旅客機は製造されませんでした。
それからおよそ半世紀、満を持して純国産旅客機M・R・J
(Mitsubishi Regional Jet)がこの秋に初飛行を迎えます。
世界最高の燃費、世界最高の居住性をひっさげて
小型旅客機業界に殴り込みをかけます。
恐らくこの機会を逃せば日本は旅客機産業に参入する事は
永久にできなくなるかも知れません。
長年の夢であった純国産旅客機、ぜひとも成功させて欲しいものです。
written by 佐藤
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